安井建設の安井香織です
はじめまして
安井建設株式会社の
シャチョーの妻・香織です
建設会社に勤めながらも
入社以来事務仕事なので、素人のまま、、、
と思っていたら
知らないうちに年数が過ぎて
あれ?シロートとはちょっと違うなぁと
実感し始めたのはもう何年も前
もしかしたら
社内の誰よりもお客様の気持ちに近いのでは??
だからこそわかることがあるのかも?
と思い、恥ずかしながら登場しました
なので、このコラムでは
わたしの体験や知っていることを中心に
お伝えしていきます
まず、私のプロフィールから
◆幼少期
愛知県名古屋市熱田区
1970年9月1日生まれ 乙女座 A型
熱田神宮のお膝元、名鉄の金山駅の近くで育ち、熱田祭りの日は半日休暇という熱田区
近所に住んでいるおばあちゃんちの窓から大きな花火を眺めることが楽しみでした
近くに当時はまだかなり汚かった「堀川」があり
かなりのおおちゃく(名古屋弁ではやんちゃな子どもの意味)だった私は
よく親から「堀川に捨てるよ!!」と
おどされ、堀川をおそれながら大きくなりました
また、何かあるたびに「堀川で拾ってきた子だでね」
と言われていました(熱田区民あるあるです)
私の2歳下には弟がいます
色黒のやんちゃな姉と色白の泣き虫な弟
性別が逆なら良かったのにね
あんたは男に産まれたら良かったのに
と言われ続けていた私
ホントの両親がいつか迎えにきてくれるという期待を持って生きていました
きっと優しいおじさんとおばさんが来てくれるに違いない!!と
捨てられてた、を信じて生きていました(笑)
◆思春期〜大学生
名古屋の真ん中育ちの私はすくすくと大きくなりました
世の中不良ブームの真っ盛り
ですが、両親が怖かったので
さほど横道にそれることもなかったです
ただ、、、反抗的な子どもでした
いつも何かに怒っているような
ものごとをナナメにみるような
ちょっと面倒な子だったと思います
高校・大学生の時にはバブル全盛期
バブリーなおともだちを横目に
両親ともにかなり厳しく、
学費は出してもらいましたが
資金の援助もなかった私は(バブルなので
お友達ははぶりがよかったのです)
アルバイトに熱中していました
接客大好き・食べること大好き
そんな私のバイト先は主にドーナツ屋さんとケーキ屋さん
せっかく入った大学もそこそこにバイト中心の毎日でした
門限が厳しいため夜遊びもせず
(当時はやりのディスコも合コンも経験なし・・・)
バイト代のほとんどを
当時のめりこんでいたスキーと北海道旅行につぎこんで
働くことは遊ぶためにあるんだ!!と
ひとりアリとキリギリスでした
(こつこつ貯金をしてパーッと使う派です)
◆就職してから
就職時期がバブル崩壊後だったので
先輩や友達から聞いていた封筒がたつようなボーナスをもらったこともなし。
働く女性はOLと呼ばれ
お茶くみやコピーとりも大切な仕事で、まだまだワープロが使われていた時代
相変わらず夏の旅行、冬のスキーのために仕事をしていた日々に、、
ライフワークのスキーで夫・安井浩一と出会いました
当時は夫は大阪にある大手のゼネコンで仕事をしていました
遠距離恋愛です
燃え上がりますね…(笑)
出会って二年目には結婚式をすませました
結婚までは大阪でしばらく暮らす予定でしたので、私はコトブキ退社しました
ですが夫にもいろいろあったようで
結婚と同時に前職を退職し、安井建設のあとを継ぐことになりました
私は初めて江南市に住むことになりました
◆江南市 安井建設に勤めはじめる
愛知県江南市
コウナンシと読みます
カンナムではありません。
私ははじめ地名も知らなかったです
愛知県の中でもマイナーな地域
特別な産業があるわけでも
人気スポットがあるわけでもありません
ですが、住んでみて驚いたこと
名古屋まで駅から20分で行ける!!
めちゃくちゃ住みやすい場所です
便利です
実は夫からは、結婚後すぐに「家の仕事を手伝ってね」といわれていましたが、
うれしいことにすぐに子宝に恵まれ、
しばらく延期に…
しかし、1998年2月・1999年8月・2000年10月・2002年3月・2003年8月
5人の子を出産することになるとは
おそらく誰一人かんがえもしていなかったことでしょう
とにかく目まぐるしく過ぎる毎日
あまり記憶がないくらい忙しかったです
義両親の年令もあり、もうそろそろ・・・と入社したのが
結婚して6年たった2003年4月、4人目の子の出産から一年後のことでした
(その後すぐに5人目の産休にはいりましたが・・)
その少し前、2002年
我が家の新築工事があり、一戸建てに住むことになりました
私はとにかく建築にまったく興味がありませんでした
そんな私が中心となってはじまった家づくり
とにかく大変でした
実家は熱田区の下町で
かなり狭い長屋(ながや)に育った私
広い家には馴染みがありませんでした
家に対するイメージも持ったことがなかった
そんな私が考える家
うまくできるハズがありませんでした
そのあたりはぜひコチラを読んで下さい
ポチッ👉家を建てたい!! 家をたてたい!!2
さらに仕事では
数字が大の苦手!!な私
小学生のころ、割り算でつまづき
食塩水の%の問題で絶望し
数学では5点!!という最低点を打ち出したこともあるくらいの苦手ぶり
(物理もだめでしたが、自分のためにフォローをするとほかの教科はほどほどにできましたよ・・)
経理という仕事にはゼツボウしか感じていなかったのです
数字が並んでいるのを見るだけで
思考が停止する、頭の回路ができてますから
ほんとうにユウウツな毎日でした
会社ではわからないことばかりの上に
義母はとても有能で創設者の一人
何でも一人でやってきた義母は
習うより慣れろ派
とにかくやってみて、という教え方に
専門用語もわからず、経理の仕組みも知らず
ただうろたえながら伝票を記入していました
家では泣きわめくこどもにイライラとし・・
仕事先ではできない自分に落ち込んで
一番つらい時期でした
◆幸せってなんだろう・・・
会社もちょうど転換期でした
毎日が午前様の夫には頼れず
ほぼ一人で育児をしながら
わからない仕事に通う日々
家は建っていたけど幸せではなかった
望んで建てたはずなのに
家にいたら日々つのるストレス
私、なんのために結婚したんだっけ??
何度も何度も考えました
家って、家族って何だろう??
自問自答しながら毎日もんもんと生活していました
家の中で家族とむきあいながら
怒ったり笑ったりをくりかえして
少しづつ我が家らしい家族ができました
ケンカもいっぱいしました
家出しよう!!と思ったことも何度もありました
腹がたって怒鳴り散らしたこともありました
幸せってどこにあるんだろう・・・
◆今の私
悩み悩みしながら生きてきた
そんな私が、今では建築経理事務の資格をとり
家づくりについて専門用語を説明する知識をつけ
30人以上の社員のみんなと
毎日笑いながら、楽しみながら仕事をし、
5人の子どもたちはそれぞれ大きくなり
中学三年~大学生まで
家を出ている子もいますが
会社のイベントにも喜んで遊びに来てくれる
仲良し家族になりました
生活は毎日のくりかえし
外へ出て行っても帰ってくる子どもたち
家があって良かった!!
と心から思うのです
いっぱい悩んできた私だから
多くのお客様の悩みや困りごとを聞いてきたから
家をつくりたい人への役に立つ情報が発信できるのでは?
と思っています
モットーは「どうせやるなら楽しんで!!」
笑顔ですごせる毎日をつくりたいと意識して生活しています
私は
家と子育ては切り離して考えられない
と思っています
住まいは誰にとっても生活の基盤
だからこそ
家族の笑顔を支えるものになる
家には子どもと暮らす毎日を気楽に楽しくするチカラがある
一緒に家をつくる、家族をつくる喜びを感じていきましょう
これからもおつきあいください!
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