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社長の生い立ちと
「家づくりへの想い」

家づくりを通して
家族の笑顔と
幸せをつくる

ホームアンドニコ
安井建設株式会社
代表取締役

安井 浩⼀

YASUI KOUICHI

安井家の4番⽬の⼦で、⻑男として誕⽣。

昭和45年6月20日

江南市にある産院にて、
安井家の4番目の子で、長男として誕生。

幼少期写真

古いタイプの父親で、
やっと生まれた男の子に大喜び。


「跡継ぎができた」


と当時勤めていた会社から独立をし、
安井建設を設立したそうです。

生まれながらの跡継ぎの誕生です。

物心がついたころには、


「跡取りだ」、「将来の社長だ」


と周りからもずっといわれていたことが全身に染み込み、
何の疑問もなく、


「将来は安井建設の社長になる」


と思って育ちました。

当時は、自宅兼会社。

少ない従業員は福井県から就職してきていた人ばかりで、
近くの寮に住んでおり、
母は経理として仕事をしながら従業員の親代わりとして
食事をつくり、私と共に食卓を囲む日々でした。

子どもの頃の私にとっては、


「お兄ちゃん」


一緒に遊んでもらうことも多く、
ギターを教えてもらったり、
キャッチボールを一緒にしたり。

会社や社員の人たちは常に身近で、
家族と同じようなものでした。

実は、

そのお兄ちゃんは、
今一緒に働いている仲間の一人です。

親以上に長い時間を共に過ごしている、
ほとんど家族の存在です。

幼い頃の私は、
じっとしておらずに動き回るタイプで、
ふざけて周りを笑わせるお調子者。

小学校では足が速く、
町内で1番の俊足。

小学生のお約束で、


「足が速い子はモテる」


の鉄則通り、4月、5月は毎年モテモテ。

ですが、6月になるとお調子者がバレ、
人気が急降下するというくりかえし(笑)


のびのびと育った私ですが
実家は、とても経済面で厳格な家でした。

生活はつつましく、
お金は仕事と会社にかけるものだ、
というが両親の考え。


「贅沢は敵だ!」


を地で行くような親でした。

私たち子どもは、
お菓子やジュースは一切買ってもらえることはなく、
流行の服や靴も買ってもらったことはありません。

友達をうらやましく思う日々。

そんな毎日でしたが、
仕事なのか、お付き合いなのか、趣味なのか、はわかりませんが、
父はゴルフに行くことがよくあり、
たまに私も連れて行ってくれました。

息子が付いて歩くことが、
父にとっては自慢だったようです。

が、実は私の本心は・・・
私はお茶屋さんで好きなものを食べさせてもらえることが楽しみで、
父について行っていたのです。

そんな気持ちをさとられないように、


「お父さんといっしょにゴルフにいくのだいすき~!」


と、一緒に行くことを楽しみにしていると思われるように、
ばれないように努力をしていたのはここだけの話(笑)

そんな小学生時代、
親から地元の中高一貫の私立学校の受験を進められ、


「親の期待に応えるんだ!負けないぞ!」


という思いで必死に猛勉強。

なんとか合格し、
入学した中学、高校時代はまさに青春!!

中学は野球、
高校はサッカー部に所属し、
レギュラーになりたい一心で一生懸命練習。

青年時代写真

ですが、

なんとかレギュラーにはなったものの、
チームは弱小チームで1回戦突破が目標。

そんなほろ苦さも残る青春時代でもありました。

会社を継ぐという変わらぬ思いを胸に、社会人デビュー

親の期待を一身に背負ったからなのか、
大学は当然のように建築科に進学。

バブル期の入学で周りは浮かれていましたが、
私の家は経済的には厳格なまま。

遊ぶお金は自分で稼がなければいけません。

ディスコにも行きたかったし、
DCブランド(懐かしい!)の服も欲しかった私は、
アルバイトに明け暮れる日々。

そしてこの当時の私は、スキーが生きがい。

その半年に満たないシーズンのために一生懸命お金を貯めていました。


そんな楽しい毎日を過ごしていましたが、
会社を継ぐという思いだけは変わることがありませんでした。

当時の安井建設は公共事業やビル、
マンションの建設が主体の「ゼネコン」。

父は根っからの技術屋で、
施工には妥協を許さない人。

私はそんな父に憧れ、
一人前の技術者になるべく、
現場監督として大手建設会社に就職をし、
関西の寮に暮らすことになりました。

1993年の春、

大きな夢と目標をもって社会人デビュー。

はじめての現場は工事費10億円の、

「六甲アイランド」


バブルがはじけた後でしたが、

「24時間戦えますか」

と、CMで流れていた時代。

朝6時に寮を出て、
帰ってくるのは22時過ぎや、
現場事務所で寝泊まり。

休みは月に2回くらい。

当時は今より10キロほど細かったのですが、
重い荷物を担いで移動することがとても多かったためか、
細いながらも筋肉がしっかりつき、
結構な細マッチョでした。

たまの娯楽は朝まで飲み明かす同期との飲み会。


そんな忙しくも平凡な日々でしたが・・・・・・

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。

1995年1月17日の朝


「ゴゴゴッー!!!」


「ドーンッ!!!」


地響きと衝撃。

何が起きたが分からず飛び起きましたが、
地震だと気づきすぐにテレビをつけるも、
停電で画面は一瞬で真っ黒に。

とりあえず寮のロビーに会社の仲間が集まり、
安否確認はしたものの、
情報は何もなく、


「一体何が起こっているんだ・・・・・・」


「俺たちはどうしたらいいんだ・・・・・・」


「他の場所にいる人たちは無事なのか・・・・・・」


不安だけがどんどん大きくなっていきました。


寮は鉄筋コンクリートの建物だったので、
建物内部はモノが落ちた以外に特別に変わりはない状態でしたが、


外に出てみると目を疑うような光景が・・・・・・


液状化で道路はガタガタ、
ガス管も破裂しガス臭が充満。

夜になり被災した街を廻ると、


物が焼けた鼻をつく臭い・・・・・・


家が潰れて車で暖をとっている老夫婦・・・・・・


焚火で暖をとりながら虚ろな目で炎を眺めている人・・・・・・


映像で見た戦後の焼け野原の光景が、今、目の前に・・・・・・


阪神淡路大震災。
今までの平凡な毎日が崩れ落ちた一瞬のできごとでした


寮の建物は大丈夫でしたが、
水とガスが復旧するまで約1ヶ月。

そんな環境で暮らす中、
ふと頭をよぎったこと。


「建物の役割は生命と財産、そして安心した生活を守ることなのではないのか」


倒れたままの家々を見かけるたびに、
今の自分の無力さを感じ、
さみしさや悔しさでいっぱいになった
あのときの感情を今でも思い出します。

実はちょうどその頃、

妻と知り合ったばかりの時で、
地震から1週間後に初デートの約束をしていたのです。

本来は日帰りでスキーに行く予定で、
ウキウキしていたのですが・・・

身動きがとれない状態で、
ほんの少しの時間のデートとなり、
恋しさがつのりました。

おかげで恋心がもりあがったのかもしれません(笑)


そんな交際からはじまり、結婚まで約2年間の遠距離恋愛。

当時は休みがほとんどなかったので、
電話は週1回、
会うのは月に1回くらいしかできませんでした。

そんな状況だった私を選び、
結婚してくれたことには感謝しかありません。

結婚式写真

婚約をし、
関西での現場監督の修行も4年が過ぎた1998年。
地元の江南に帰る決心をしました。


ところが、

その頃はバブル後の冬の時代。

当時は公共工事中心だった安井建設。

会社にいても仕事があまりなく、
手持無沙汰の毎日で
終業時間ぴったりに帰ることができる毎日。

「このままでは近い将来倒産してしまうのでは・・・・・・」


そんな危機感がありました。

しかし、

社長である父が質素倹約、
健全経営をしてくれていたおかげで、
安井建設には思い切った挑戦をする力が残されていたのです。


「何か新しいことに挑戦しなくては!」


そう思った時、


「建物の役割は生命と財産、そして安心した生活を守ることなのではないのか」


あの地震の時の感情が強烈によみがえってきました。


建築に関わる身として、


「安心して暮らせる家」


を提供することは、


「私の使命ではないか」


ここから戸建て住宅への挑戦が始まったのです。

当時、注文住宅は非常に高額。

20代、30代の収入で建てることはまず不可能。

そこで私は、


「若い世代の人でも建てられる、永く安心で安全な住宅を提供する」


と決めました。

日々たくさんの勉強をし、
メーカーに直接価格交渉したり、
協力会社にも粘り強く協力のお願いをしました。

私の目指す家づくりは、


「安いだけの住宅」


を建てることではありません。

若い世代の人でも安心して生活できる、


「地震に強く、耐久性の高い家」


そして、


「笑顔があふれ幸せを実感できる家」


それを実現するために、
非常に長い時間がかかりましたが、
品質を下げずにお値打ちな、
ローコスト住宅の商品化に成功しました。

その商品発表のチラシを最初に新聞に折り込んで出した朝、
電話の前で待機している時のドキドキは今でも忘れません。

しかし、

電話は鳴らず・・・・・・

そんなすぐにうまくいくほど、甘くはありません。

そうなると自分の足を使うしかありません。

それまでに安井建設で工事をしていただいたお客様を訪問したり、
不動産会社に足を運んだり、
協力会社さんへ家を建てる方の紹介をお願いしたり。


やっとのことで最初の注文!


協力会社の型枠大工さんの家を建てることができました。

最初の注文をいただいだ喜びは今でもしっかり覚えています。

同時に地元の不動産会社さんからもいい土地を紹介していただくことができ、
地元のつながりが保てたのも、
父が誠実に地域に根付いて経営をしてきてくれたおかげだと感謝しました。

価格競争からの脱却

私たちがローコスト住宅の商品化をした時は、
他にローコスト住宅に取り組んでいる会社はほとんどありませんでした。

当時のチラシを見て、


「どうせ粗悪品だ」


と悪口を言われることもあり、
大変悔しい思いもたくさん重ねてきました。


それでも私を支えてくれたのは、
お客様の笑顔と、


「ありがとう」


のことばでした。

それを励みに、
安心で安全で手の届く価格の家づくりに
ひたすら取り組んできました。

しかし、

数年後にはローコスト住宅に取り組む会社がかなり増え、
低価格をウリにした価格競争が始まります。

私たちの想いは、
安い家をつくることではありません。


「若い世代でも安心して生活できる家」


を提供することです。

ですが、

当時の私は未熟者で、
ローコスト住宅の価格競争に勝つべく、
価格で勝負を追い求めてしまっていたのでした。

そんな毎日で、ふと気が付いたのです。


私たちを信頼して任せてくれるお客様には正価で注文をうける。

逆に、

何社も見積もりをして少しでも安くと交渉するお客様には値引きをして安くする。


「何かおかしくないか?!」


「それでお客様に対して誠実であるといえるのか?!」

自問自答する日々が続きましたが、
覚悟を決めました。

価格競争からは手を引き、
誠心誠意の価格で販売をしていくんだ!と。


ただ、残念なことに


「値引きはあたりまえ」


と思われてしまう業界です。

最初の提示価格を高いものにしておき、


「何百万も値引きしたようにみせる」


という会社が現れ、まかり通っていた業界です。


「どうしておたくは値引きしないのか?」


と責められることもよくありました。


正直、とても苦しかったです。

ですが、

信念をもって決断したことです。


「丁寧な家づくりで満足を高め、信頼してもらうんだ!」


と貫き通しました。


そしてほぼ同じ時期に、
わが家では、子どもが増えていました。

4人目の子が妻のお腹にいるときに、
夢のマイホームが完成しました。

しかし、その頃の私は仕事が中心の毎日。

家づくりの最中、
妻との意見のすれ違いを解消しないまま、
勝手に突っ走る私。

妻にとっては不満がいっぱいの家づくり。

せっかく家を造っているのに、


「家族が喜んでくれないのはなぜなんだ!」


「何がいけないんだ!」


と悩み、イライラして、
妻とケンカもたくさんしました。

実は、この経験が私の家づくりの考え方に大きな影響を与えました。


「家があるから幸せなのではない」


家そのものはもちろん大切だけれど、


「どんな家づくりをするか」


それで幸せが大きく違ってくるのだ!と。

「間取り」も「設備」も「価格」も大切だけれど、


「どんな家づくりを体験するのか?」

しかも、それこそが後々の家族の関係に大きな影響があることを、
身をもって体験したのです。

その経験から安井建設では、
お客様に寄り添い、
親身になって相談できるパートナーとして
、 女性のコーディネーターの役割をおくことに決めました。

多くのお客様にとって初めての家づくり。

不安や疑問でいっぱいのお客様にとって、
コーディネーターのサポートがあることで、


「家づくりをもっと楽しむことができるんじゃないだろうか?」


お客さまには、
私の妻のように、


「残念だ」


と言わせないように。

人生のステキな思い出となる、


「まごころのこもった精一杯の家づくりを提供したい!」


そこから現在も続く私たちの大切なミッション、


「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」


が生まれました。


さらに、

阪神淡路地震の悲劇を繰り返したくない
という思いの強さから、
新築だけでなく既存住宅の
耐震補強工事にも力を入れたい、と
リフォーム事業を立ち上げました。

同時に私は木造耐震診断士としても活動し、
多くの家の耐震診断を行ってきました。

耐震補強工事というのは、
今ある家の生活を守りながら
家の強度を増す技術が必要で、
新築工事以上に専門的な技術と知識がないとできません。

安井建設は創業時から
現場の技術と知識を大切にしてきたからこそ、
成り立っているリフォーム事業だと思っています。


新築住宅事業をはじめてから、
20年の月日がながれました。

値引き合戦をしていた多くの他社が倒産したり、
規模を縮小したりという現実があります。

一時の得のために惑わされず、
誠心誠意の姿勢を貫いてきてよかったと
今では実感できています。

Home&nico の誕生

昭和47年に創業した安井建設も令和3年に50周年を迎えました。

50年会社が存続できる確率は1%以下と言われるなかで、
50年を迎えることができたのは、
江南市や周辺の方々に支えられ、
育てられたからこそです。

そのことに感謝の気持ちが湧き上がり、
何か地域に貢献できることはないかと考え、
江南市民文化会館のネーミングライツに応募することに。

今まで市民の方々に親しまれてきた、
江南市民文化会館に代わる名称です。

社内公募をし、多くの提案の中から選ばれたのが、


「Home&nico」


当時の私たちの企業ミッションは、


「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」


であり、Home(家)とnico(笑顔のニコ)は、
まさにそれを表していたのです。

そこで江南市民文化会館の名称を、


「Home&nicoホール」


とさせていただき、
私たち安井建設も「Home&nico」を屋号としました。

ミッション

私たちのミッションは長い間、


「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」


としてきましたが、


「A DAY A FUTURE A HISTORY しあわせをつなげる」


に変更しました。

ミッションの根幹は同じですが、


家を建てるそれぞれのご家族の1日を大切にし

将来を見据え

ご家族の歴史を紡いでいく



長期的な視野で「暮らし」を形づくり、
幸せをつないでいくことが、
私たちの使命だという思いを明確にしました。

このミッションを胸に、
より良い家づくりが提供できるように、
これからも精進してまいります。